「馬医」の時代背景 顕宗(ヒョンジョン)編

「馬医」第5回「運命の再会」で、成長したクァンヒョンとチニョンが登場しました。そして、王様も孝宗から顕宗(ヒョンジョン)に代わっていました。今回は下記の二つの文献を読んで顕宗(ヒョンジョン)についてまとめてみました。

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ちなみに朝鮮王朝史〈上〉 は絶版のようです。アマゾンには古本が新品価格よりも高く販売されています・・・。電子化にすれば絶版なんてないのに。

弱い王様だった顕宗(ヒョンジョン)

馬医ではどのようなキャラクターの王様になるかわかりませんが、史実では王妃の実家である清風金氏の家門が外戚となり政治影響力を行使したようです。また、孝宗の時から頭角を現した宋時烈(そうじれつ、송시열)は顕宗(ヒョンジョン)に代わっても実力をもっていました。

つまり、強い実力を持った家臣に囲まれた弱い王様というのが顕宗(ヒョンジョン)というわけ。

二度の礼訴(礼論)

顕宗(ヒョンジョン)の治世の間に二度も西人派と南人派との間で礼訴(礼論)論争が起こった。

1番目は孝宗の服喪期間の論争。3年なのか1年なのかという点。これは孝宗が次男であるにも関わらず王位についたことによる解釈の相違。次男なら1年だけど王位についたので長男に相当するということなら3年になる。まあ、どっちでもいいじゃんと言いたくなるけど孝宗の正統性にもかかわる議論で、当然、孝宗の息子である顕宗(ヒョンジョン)にも影響する話。

結局は1年ということで、決着がついているのだけど、これは顕宗(ヒョンジョン)にとっては屈辱の結果ではなかろうか。

この時、孝宗の側近だった宋時烈は1年を主張したというのだから、なんだかなーーー。この論争は何回も蒸し返されることになります。というのも、西人派と南人派との権力闘争の道具に使われていたためです。

もう一つの礼訴(礼論)は孝宗妃の仁宣王后 張氏が死去したことによる服喪期間。1年にするか9か月にするかという論争。いやーーー、本当にどうでもいいわーーーと言いたいところだけど、西人派と南人派の生死がかかっている闘争なので力が入ってしまう。

今回は顕宗(ヒョンジョン)が指導力を発揮して1年に決めさせた。その結果、西人派が力を失い南人派が力を得ることになった。このあたりの派閥の競わせ方を一歩進めたのが顕宗(ヒョンジョン)の息子である粛宗というわけ。

さて、ドラマ「馬医」での顕宗(ヒョンジョン)はどんな王様として描かれるのでしょうかね。

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