「高麗神社から見る日韓(韓日)交流史」その2

「渡来から、未来へ」

高麗神社から見る日韓(韓日)交流史

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渡来人の東国移住

666年 百済人2000人東国へ
684年 百済僧尼23人武蔵国
687年 高麗人56人常陸国
711年 多胡郡(現在の高崎)
716年 高麗郡1799人移住
758年 新羅郡(現在の新座市、志木市)

なぜ、今の日高市周辺に高麗人を移住させて高麗郡を建郡したのかは不明だそうです。不明ですが仮説はあるそうで、その仮説は以下の通り。

  1. 東国の開発と安定のため。
  2. 東山道から国府へ続く道(武蔵道)の守備のため。
  3. 律令体制を地方に根付かせるためのモデルケースづくり

高麗郡の建郡

高麗人が移住するまではほとんど人が住んでいなかったということは発掘などでわかっている。稲作に適さない土地だった。

渡来人である高麗人を辺鄙なところへおいやったというよりは大切な場所に移住させたとみるべきだろうということ。

それは周りの先住民からも協力があり須恵器の提供などがあったことからうかがい知れる。

また、大事業となる寺院の建立が3つもなされています。寺院の建立には高い技術と経済力が必要です。

祭神となった若光は従五位下という比較的高い位(貴族となります)を朝廷から貰っています。

その他の地の高麗人伝説

神奈川県大磯町には高麗人伝説があり、高来神社は高麗神社と呼ばれていました。今でもタクシーに乗ると高麗神社で通るそうです。

また、御船祭の唄に「高麗国の守護なれば」という一節があるそうです。

高句麗からの使者

高句麗からは666年正月、666年10月、668年7月と3度も使者を送ってきています。これは高句麗が唐から度々攻撃を受けて支援を日本に求めていたことの表われ。結局、高句麗は668年に唐に滅ぼされてしまいます。

若光は666年10月にやってきた使節団の第二副使(二位玄武若光)としてやってきたと言われていてそのまま日本に残ったと思われます。

続きます。

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