ファン・ジニ (下)

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ファン・ジニ (下)では映画版 ファン・ジニとほぼ同様な結末を迎えてしまいます。私としては不満な結末ですが、小説ではもう少し書き込まれていてその不満が多少緩和されています。

ファン・ジニ (下)のお話は、

  1. 金希説 留守が横領していた上綿布500束を穴埋めするために、旅籠屋の主人であるコンボを殺害して財宝を盗んでしまう。その罪を火賊となったノミにかぶせることで怒ったノミはセンセーショナルな行動に出るが。
    →こちらが主となるストーリ。
  2. イグミとケットンイの愛の行方。
    →副となるストーリ
  3. ファン・ジニ、ノミ、金希説の愛憎劇
    →背景となるテーマ

となっています。映画版のファン・ジニでは1項の火賊となったノミのアクション・シーンが多くて、なぜ、罪をかぶせることにしたのかとか狙われた金持ちの家は一体とどのような家だったのかが語られていませんし、2項のイグミとケットンイの愛も深くは語られていない。ましてや金希説は実はファン・ジニを愛しており身体ではなく魂を欲していたが横領がばれそうになり冷酷な面が前面に出てしまったなどという話もされていせん。

以下、ネタバレ

ファン・ジニ、ノミ、金希説の愛憎劇

小説では金希説はファン・ジニの心が欲しいために無理強いして守庁妓生にはしませんでした。ファン・ジニと金希説がサシで話をするシーンがありすが、その中で金希説はこんなことを言ったらチニに軽蔑されるとか結構気にしながら話をしたり、また、横領がばれそうなときには相談相手としてファン・ジニを考えたりもしているくらいチニに対する知恵と才気と知性に感服しています。

皮肉なことにチニの愛と尊敬を手に入れたいがために相談するを良しとせずに邪悪な策略に走って、結局はチニからの愛と尊敬を得る代わりに身体を得てしまう。

ノミはチニに少しでも近寄るために字を習い、そしてチニに手紙を書きます。今ではお嬢様として上からの目線で接していたチニですが、最後に捉えられたノミに牢獄で杯を交わすときにチニがずっと求めていた偽善者ではない自分が本当に愛すべき人物がノミであることを悟ります。

私が不満に思うのは最後をもっと劇的に盛り上げるのなら、途中までは偽善的な他の両班とは一味違うように描いていた金希説をあっさりと冷酷かつ偽善的な両班に貶めてしまうのではなく、体制側だけどある一点で信念曲げない人物として描いて欲しかった。そうすればノミと金希説との間で揺れるファン・ジニが生まれてもっと盛り上がる小説になったのではと思うのだが。

イグミとケットンイの愛

最終的にはハッピーエンドとなる二人の愛。ファン・ジニが望んだけど手に入れることができない愛を得られない代償として、対して年が違うわけではないのに親代わりのようにして盛大な結婚式をあげる。

それは凡人の一つの理想的な姿かな。とはいっても、イグミとケットンイは美男美女という設定なんだけど。

旅籠屋の主人、コンボ殺害事件

コンボの経営する旅籠屋の建物から高句麗時代の財宝が掘り出される。今で言うと国宝級のもの。役人である戸長と吏房は留守の横領を穴埋めする陰謀として、この財宝を取り上げることを留守に了承させる。実行犯の戸長と吏房は濡れ衣を火賊のノミにおっかぶせる。しかし、怒ったノミにより衆人環視の元で真犯人が戸長と吏房であることを証明して、恥をかかせることに成功する。

しかし、そのために体制から目をつけられたノミは追われることになりとうとう捕まってしまう。

著者のホン・ソクチュンは北朝鮮の作家である。両班を党幹部と読み替えると極めて体制批判のように読めてしまうし、火賊の話についても体制に対するレジスタンスと読めるのでなおさらヤバイ。しかし、そんな風にはあちらでは受け取られていないようなのはなぜ?

その後のファン・ジニ

妓籍を廃して諸国漫遊に出るチニだが、金希説を失脚させてしっかりと復讐を果たしている。旅先ではボロをきて汚いなりをしているのだが、食べ物を貰うために歌を歌うとみんなの心を捉えてしまうというのはテレビ版のファン・ジニの最終回につながりますね。庶民の中で笑顔で踊るファン・ジニ=ハ・ジウォンさんの姿が浮かんできます。

不満はありますが、よくできたファン・ジニの小説です。テレビドラマのファン・ジニとは違うファン・ジニに会いたい方にはお勧めの三冊です。

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