韓国文化院さんが主催している講演会シリーズ2013 「韓国の魅力」 第9回「韓国映画の魅力と躍進」を聞いてきました。今回の講師は城西国際大学メディア学部教授、キネマ旬報社顧問の掛尾良夫氏です。
キネマ旬報」編集長をやられていた方です。
韓国映画との出会い
1985年にキネマ旬報の企画で大島渚監督とイ・ジャンホ監督との対談を実現したことがきっかけ。池袋の文芸坐でイ・ジャンホ監督の「寡婦の舞」を観てから対談という流れだったが上映中に大島渚監督のいびきが聞こえてきて冷や汗をかいてしまったが、さすがに大島渚監督だけあってちゃんと話をしてくれたとのこと。
1980年代の韓国映画の状況
1984年に韓国映画アカデミーが開学。卒業生にはポン・ジュノ監督、ホ・ジノ監督、キム・テギュン監督など錚々たるメンバーがいる。
場所は弘大(ホンデ)にありコーヒープリンス1号店の近くだそう。
当時の日本は日比谷シャンテ、シネヴィヴァン六本木といったミニ・シアターのブームで韓国映画の存在感は希薄であった。
1989年にベルリンの壁が崩壊し、冷戦時代の終わりが告げられた。韓国政府は冷戦後の時代にはソフトパワーの時代の到来を予測していた。その予測の元に企業支援、人材育成を強化する方針を立案した・・・というのは後付の理屈だろうというのが掛尾良夫氏の見立てだけどソフトパワーに力を入れていたのは事実でしょう。
1990年代の韓国映画の状況
ソフトパワーに力を入れていたのだが効果はすぐには現れず、1993年の韓国国内での自国映画のシェアは15%であった。
しかし、1990年代前半には秀作の公開が相次いだ。1992年東京国際映画祭で東京グランプリ・都知事賞を獲った『ホワイト・バッジ』、「風の丘を越えて」が公開されている。
1996年に第一回釜山国際映画祭が開催された。地元メディアは熱く報道し、観客の熱気は他のいかなる映画祭を凌いでいた。
韓国で日本映画の開放が始まる
岩井俊二監督の「Love Letter」が韓国で1999年に公開され、ソウルだけで60万人の観客動員をするという大人気を博した。中山美穂の人気はアイドル並であり、岩井俊二監督も熱狂的に迎えられたとのこと。
韓国の映画雑誌が日本の映画の情報を求めてキネマ旬報と提携したいと申し込みがあった。当時の韓国の映画雑誌は「FILM 2.0」「cinebus」「シネ21」の三誌。結局は誠実で知的なアン・ジョンスク編集長がいるシネ21と提携したとのこと。
アン・ジョンスク編集長は飲むと豹変するそうです・・・。
アン・ジョンスク氏はその後、KOFIC(韓国映像振興院)で初の女性委員長になっているお方。
「Love Letter」の成功を見て今後は韓国の映画は日本映画が席巻するのではないかという見方があったけど結局は「Love Letter」に続くヒットはなかった。
2000年以降の韓国映画
日本で公開された韓国映画は、
シュリ、JSA、イルマーレ、友へ チング、猟奇的彼女、僕の彼女を紹介します、などなど秀作ぞろい。また、冬のソナタにより韓流ブームとなった。弊害としては映画の購入代金が高騰した。身の丈に合わない金額を要求するようになり、それが日本で韓国映画が今一つ伸びない理由にもなっている。
掛尾良夫氏のベスト3
会場からの質問に答えてベスト3を上げていました。最近の映画ではという限定条件付きでおっしゃっていたのが以下の3本の映画。
- 10人の泥棒たち
- 建築学概論
- サニー 永遠の仲間たち
講演中には監督やスターと一緒にうつっている写真をたくさん見せていただき羨ましい思いをしました。
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